画面の向こう、レンズの裏側
「ほんとにやるの?」
スマホの画面が、視聴者からのコメントで目まぐるしく流れていく。三脚に固定されたレンズの向こう側には、何万人もの見ず知らずの視線。だけど、この狭いワンルームの部屋を支配しているのは、間違いなく私のすぐ隣にいる彼の気配だった。
「かなのとしたい奴、今からおいで」なんて、冗談半分の過激なタイトルを打ち込んだのは彼だ。悪ノリの配信。悪戯っぽい彼の横顔を見つめながら、私は自分の心臓の音がマイクに拾われていないか、そればかりが気になっていた。
部屋の空気は、彼が持ち込んだコンビニの缶チューハイの匂いと、少しぬるいエアコンの風で満たされている。彼はスマホを弄るふりをしながら、不意に私の髪に触れた。指先が耳の裏をかすめる。それだけの動作なのに、まるで世界中の視線がその一点に集まったような錯覚に陥った。視聴者のコメントは「早くしろ」「ガチ?」と煽り立てているけれど、私たちの間には、それとは全く違う、ひどく静かで重い時間が流れ始めていた。
熱を帯びる境界線
「みんな待ってるよ」
私はわざとぶっきらぼうに言って、彼から視線を外した。だけど、彼の手は離れない。それどころか、指先が首筋を滑り、鎖骨のくぼみへと降りてくる。綿の Tシャツ越しに、彼の指の熱がじんわりと染み込んできた。
部屋を照らすリングライトの白い光が、彼の瞳の中に小さな円を描いている。その瞳が、配信画面ではなく、まっすぐに私だけを捉えた。
「……じゃあ、始める?」
彼の声は驚くほど低く、いつもの動画のテンションとはまるで違っていた。マイクの音量を絞る彼の仕草が、妙にリアルで心臓を跳ねさせる。画面の向こうの喧騒が、急に遠くの出来事のように思えた。衣服が擦れる、かすかな音が部屋に響く。彼が少しだけ身を乗り出した瞬間、彼の体温が私の肌を包み込んだ。香水と混ざり合った、彼自身の匂いが鼻腔をくすぐる。
もう、レンズのことなんてどうでもよくなっていた。この部屋という狭い箱の中で、お互いの呼吸の音が一番大きく聴こえていた。
遮断された世界で
彼は不意に手を伸ばし、三脚の上のスマホをひっくり返した。画面は一瞬で天井の無機質な照明だけを映し出し、音声はミュートに切り替わる。突然の「配信事故」に、向こう側は大騒ぎしているだろう。
でも、ここにはもう二人しかいない。
「かなの、こっち見て」
囁くような声に抗えず、私は彼のシャツの裾をぎゅっと掴んだ。部屋の隅にある姿見に、お互いの距離を完全に無くそうとしている二人の影が映っている。彼の大きな手が、私の頬を包み込んだ。親指が唇の端をそっとなぞる。その指先は少しだけ震えていて、彼もまた、ただの演出ではなく、私と同じように余裕をなくしているのだと気づかされた。
吐息が重なり、触れ合う肌の境界線が溶けていく。次の瞬間、彼が何を仕掛けてくるのか。その予感だけで、私の身体は甘い熱に支配されようとしていた。


