ノックを忘れた境界線
「ちょっと、入るならノックくらいしてよ」
畳の上に広げた荷物を整理していた私は、不意に開いた襖の隙間に慌てて声を尖らせた。
幼馴染の駿は、手にした麦茶のグラスを揺らしたまま、敷居を跨いだところでピタリと動きを止めている。
私たちは昔から、まるできょうだいのように育ってきた。互いの家を行き来し、一緒に宿題をしたり縁側で涼んだりした記憶が、この田舎の民家の至る所に染み付いている。
けれど、高校を卒業して都会に出た私と、地元に残った駿。久しぶりに会う彼は、私の知っている「お兄ちゃんぶる幼馴染」の姿ではなかった。
Tシャツの袖から覗く逞しくなった腕、低く響くようになった声。そして、何より私を見つめる彼の瞳の真剣な温度が、かつてとは決定的に違っていた。
駿の視線が私を捉える。その一瞬の間が、部屋の空気をひどく重く、どこか落ち着かないものに変えていく。
軋む廊下と、戸惑いの残響
会話が途切れ、ガラスに当たって溶ける氷の音が、やけに鮮明に部屋へ響いた。
駿はグラスを床に置くと、どこか決心したような足取りで私の方へ歩み寄ってくる。
彼が一歩を踏み出すたび、古い田舎の民家の床板が、長い年月の記憶を呼び起こすように微かに軋んだ。
それはまるで、私たちが頑なに守ってきた「きょうだい」という関係の境界線が、静かに揺らぎ始めている音のようだった。
「駿、どうしたの……?」
冗談めかして笑おうとしたけれど、彼の真っ直ぐな視線に気圧されて言葉が続かない。
「お前さ、自分が思っている以上に変わったな」
駿の低い声が鼓膜を震わせる。かつては追いかける背中だったはずの彼が、今はすぐ目の前で、一人の大人の男性として存在している。
部屋を通り抜ける夏の風が、二人の間に流れる張り詰めた空気を微かに揺らした。静寂に溶ける幼い約束
もう、子供の頃のような無邪気な態度は取れなかった。
駿の瞳には、かつての優しいお兄ちゃんの面影の奥に、言葉にできない切実な感情が滲んでいる。
「ただの幼馴染のままでいるの、もう難しいかもな」
彼の独り言のような呟きが、私の胸に深く突き刺さる。その言葉に、私の胸の奥が不規則に鼓動を打った。
見つめ合う時間の長さだけ、二人の距離の意味が塗り替えられていく。
古びた柱時計が刻む音だけが、今の二人の沈黙を埋めていた。
これ以上踏み出せば、もう昔のような気軽な関係には戻れないかもしれない。
けれど、再会によって生まれたこの強烈な違和感と、互いを意識せずにはいられない引力。私は、彼が次に何を語るのかを、ただ静かに待っていた。


