曇り硝子の向こう側
昼間の私は、オフィスの片隅で分厚い書類に目を落とす、ただの「真面目な眼鏡女子」だ。誰とも無駄口を叩かず、髪をきっちり結び、感情の起伏を隠して生きている。だけど今、彼の部屋の、外の音が一切届かない密閉された空間で、私はその眼鏡を指先で少し直しながら、激しい緊張に襲われていた。
部屋には、彼がさっきまで淹れていたビターなコーヒーの香りが微かに残っている。ソファに座る彼は、いつもと違う私の佇まいを、探るように、でもどこか優しく見つめていた。
「……そんなに緊張しなくてもいいのに」
彼の低い声が、静まり返った部屋の空気をかすかに震わせる。
「……だって、こんな風に二人きりになるなんて、思わなかったから」
私の心臓は、ブラウスの下で信じられない速さで脈打っていた。指先が、膝の上でスカートの裾を強く掴んで離せない。衣服が擦れるわずかな音が、二人の間に流れるじれったい距離感を、より一層際立たせていた。
熱を帯びるレンズ
私がゆっくりとソファの端から彼の方へ体を向けた瞬間、部屋の照明が一段と暗くなったように感じた。
いつもの私なら、こんな風に誰かと視線を交わし続けるなんて絶対に耐えられない。でも、眼鏡のレンズ越しに見える彼の瞳が、私の中に眠っていた「本当の気持ち」を静かに呼び覚ましていく。
私たちは言葉を介さない長い、長い沈黙の中にいた。彼が息を呑む音が、部屋の隅々にまで響き渡る。
彼の手が、私の頬に触れようとして途中で止まる。その迷いが、二人の間の空気を熱く昂らせた。私の肌の熱がどんどん上がっていくのが分かった。眼鏡の奥の瞳が、じわじわと潤んでいく。
「……いつもと、全然違う」
彼の掠れた声。その瞬間、私は自分を縛り付けている「完璧な自分」を脱ぎ捨てたくなった。視線を逸らさず、彼が差し出した指先が、ついに私の眼鏡のフレームに触れる。その指の熱さが、氷を溶かすように私の心を揺さぶった。理性が溶け合う深淵
この部屋という閉ざされた世界の中で、私たちは日常のルールを忘れかけていた。
いつの間にか私の眼鏡はわずかに曇り、世界の輪郭を曖昧にさせている。でも、その曇り硝子の向こう側にある、彼が隠し持っていた情熱だけは、恐ろしいほど鮮明に伝わってきた。
彼はゆっくりと私の眼鏡を外し、テーブルの上に置いた。視界がぼやける代わりに、他の感覚が研ぎ澄まされていく。
これ以上進めば、明日からの「淡々とした同僚」には二度と戻れない。その危うい境界線が、かえって私たちの結びつきを狂おしいほど強烈なものに変えていく。
「もう、隠さなくていい?」
彼の言葉に、私はただ小さく頷いた。
互いの荒い呼吸だけが部屋を支配し、限界まで高まった期待と熱量が、今にも音を立てて溶け合いそうになっていた。


