未完成のままで守られて
スタジオの一角に組まれたセットは、どこか懐かしい幼稚園の教室を模していた。パステルカラーの壁紙、小さな木製の椅子。いつもなら子供たちを迎え入れる側のはずの私が、今は薄手のブラウス一枚で、そのちぐはぐな空間にぽつんと座っている。
「先生、ちょっとエプロン外してみよか」
声をかけてきたのは、今日の撮影を担当するディレクターの男の人だった。20代後半くらいの、少し気だるげで、でも仕事の早そうな雰囲気のひと。
「……なんか、いつもと違いすぎて、すごく変な感じです」
私がエプロンの紐に手をかけながら呟くと、彼は持っていたバインダーを傍らに置き、ゆっくりと私との距離を詰めてきた。
「その『いつもと違う』のがいいんだよ。みんな、君みたいな先生に包まれたくて、ここに来るんだから」
男の人が私の正面にしゃがみ込む。その瞬間、彼のまとう少しビターなコロンの香りが鼻腔をくすぐった。
私はこのスタジオのセットを、自分を縛り付けていた日常から切り離された、奇妙な部屋のように感じていた。普段の保育園という部屋では、私は絶対に「完璧な大人」でいなければならない。けれど、この人工的な部屋のなかでは、誰も私に正しい教科書通りの姿なんて求めていなかった。
男の人の手が、私の指の上に重なる。エプロンの結び目を解く彼の指先は、冷房の効いた空間のなかで、驚くほど熱を帯びていた。
ほどける結び目と、満ちていく呼吸
背中のリボンがするりと解け、張り詰めていた布地が床に落ちる。衣服が擦れる微かな音が、静まり返ったスタジオにやけに大きく響いた。
男の人はエプロンを受け取ると、それを椅子の背もたれにかけた。そこから、私たちの間に言葉にできない長い間が生まれる。彼は私の鎖骨のラインから、戸惑いで小さく上下する胸元へと、静かに視線を滑らせていった。
「……そんなに見られると、困ります」
「困ってる顔も、すごくそそるよ」
彼の声が少し低くなる。お互いの距離が縮まり、彼の吐息が私のデコルテに直接触れて、じわじわと皮膚の温度を上げていく。
この仮設の部屋の空気が、熱を帯びて濃密に変化していくのが分かった。外の世界では「誰かを癒やす存在」だった私が、いまはこの男の人の視線と体温によって、ただの一人の潤んだ女性へと作り変えられていく。
男の人がゆっくりと手を伸ばし、私の頬に触れた。親指の腹でそっと輪郭をなぞられるたびに、身体の芯が甘く痺れていくような錯覚に囚われる。解放のチャイムが鳴る前に
彼の瞳の奥にある、強烈な独占欲と、私を完全に剥き出しにしたいという衝動が、まっすぐに伝わってくる。
もう、子供たちの前で見せる笑顔の作り方なんて忘れてしまった。この部屋の中で、彼の熱い眼差しにさらされている時間だけが、私にとっての剥き出しの現実だった。
「みんな君に甘えたいんだろうけど、俺は君をめちゃくちゃに甘やかしたい」
男の人の囁きが耳元を掠め、頭の芯がトロンと溶けていく。
彼の身体がさらに一歩踏み込んできて、互いの胸が触れ合うほどの距離になる。彼の強い鼓動が、私の背中まで振動となって伝わってくるようだった。
このまま彼の手によって、私のなかのすべての理性を引き裂かれたい。自制心を失った私の指先が、無意識に彼のシャツの胸元を小さく掴んでいた。
「本番、いきます」
ミキサールームからの声が合図を告げる。けれど、私たちの視線は絡み合ったまま離れない。次の瞬間、どちらからともなく境界線を踏み越えてしまいそうな、圧倒的な衝動がスタジオの空気を支配していた。


