鏡の中のルージュ
金曜日の夜、いつものように彼が私の部屋にやってきた。
ドアが閉まる音が重く響き、急にワンルームの空間が狭くなったように感じる。
普段の私は、彼の前だと何もしゃべれなくなるくらい奥手で、ただ黙って彼の後ろをついて歩くようなタイプだ。
「今日も疲れた?」
私がそう問いかけると、彼は少し驚いたように私を見た。
彼がソファに深く腰掛け、ネクタイを緩める。
その無防備な仕草を見るだけで、私の胸の奥がチリチリと焦げつくような感覚に襲われた。
私はおもむろに、洗面台の鏡に向かい、いつもは絶対に付けないような鮮やかな真っ赤な口紅を唇に引いた。
鏡に映る自分の唇が、まるで別人のように色づいていく。
部屋の照明を少し落とし、私は彼へとゆっくり近づいた。
まだ会話らしい会話もしていない、このじれったい距離感が、部屋の空気をじわじわと支配していく。
侵食する赤
私の唇の色に気づいた瞬間、彼の目の色が変わったのが分かった。
言葉にできない沈黙が、二人の間を長い時間行き来する。
私は彼の側に座り、上目遣いで彼を見つめた。
さっきまでの戸惑いはどこかへ消え去り、私の中の「スイッチ」が完全に切り替わる。
吐息が触れそうな距離で、彼の瞳の奥にある揺らぎを観察する。
「……それ、どうしたの」
彼は困惑したような、でも目を離せないといった声で呟いた。
私は何も答えず、ただ大胆な笑みを浮かべ、彼のシャツの襟元に指を滑らせた。
布地が擦れる微かな音が、静まり返った部屋の四隅に染み渡る。
真っ赤なルージュが、彼の視線を完全に釘付けにしている。
彼から立ち上る、かすかな香水の香りと男らしい体温が、私の感覚をどんどん鋭敏にさせていった。甘い支配
部屋という閉ざされた四角い世界の中で、私たちは完全に二人だけの熱量で動いていた。
私はさらに距離を詰め、彼の鼓動を感じるほどの至近距離で顔を近づける。
紅い唇がかすかに開くたび、部屋の空気そのものが震えるようだった。
もう誰も私たちを止められない。
私のルージュの色が、彼の視界を、そしてこの空間のすべてをべっとりと染み付いていくような錯覚を覚える。
彼が耐えかねたように私の肩を掴み、強く引き寄せようとした。
その瞬間、私の内面で激しい衝動が弾ける。
もっと翻弄したい、この真っ赤な唇で、彼の理性を跡形もなく溶かしてしまいたい。
互いの荒い呼吸が重なり合い、部屋の温度は最高潮に達していた。
指先が彼の肌をなぞるその刹那、彼は完全に言葉を失い、ただ私との濃密な時間に飲み込まれていった。


