薄明のなかの輪郭
四角く切り取られた夕暮れが、この部屋の唯一の光源だった。
終業後のオフィスは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。私と、デスクを並べる同僚の彼は、残されたわずかな書類を片付けるために居残っていた。トントン、と彼が書類を揃える規則的な音が、やけに鼓膜に響く。
「……なぁ」
不意に彼が声をかけてきて、私は肩を跳ね上げそうになった。振り返ると、彼は机に肘をついてこちらを見つめている。西日が彼の横顔をオレンジ色に染め、いつもは見せないアンニュイな影を落としていた。
「まだ、それ終わらない?」
「あと少し。これが済んだら帰れるよ」私はあえて平然を装い、パソコンの画面に視線を戻した。だけど、タイピングする指先が少しだけ震えている。彼と二人きりというシチュエーションが、私の心臓の音を不自然なほど大きくさせていた。
彼が椅子のキャスターを転がし、私のすぐ近くまで寄ってくる。ふわりと、彼がいつもつけているシトラスの香水の匂いが鼻腔をくすぐった。それだけで、私の体温が急上昇していくのがわかる。
縮まる距離と、かすかな熱
「手伝うよ」
そう言って、彼の手が私のマウスを持つ手に重ねられた。
一瞬、呼吸が止まる。彼の肌の熱が、私の手の甲を通じてダイレクトに伝わってきた。お互いの衣服の繊維が擦れ合い、カサリと小さな音が静かな空間に響く。「あ……ありがとう」
声が掠れてしまった。慌てて彼の方を見ると、彼もまた、じっと私の目を見つめていた。
視線が絡み合い、言葉にできない沈黙が二人の間に流れる。一秒が、まるで一時間にも感じられるような濃厚な「間」だった。彼の瞳の奥に、いつもの「同僚」としての顔ではなく、一人の男としての強い光が灯っているのが見えた。部屋の隅にある観葉植物の影が、夕日の傾きとともに長く伸びていく。この狭い空間が、まるで世界から切り離された二人だけの秘密の場所になったかのような錯覚に陥る。彼の吐息が、私の頬に微かにかかって熱い。
境界線を超える瞬間
私たちはどちらも動けずにいた。マウスを握る彼の手の力が、ほんの少しだけ強くなる。
この部屋の空気が、じわじわと形を変えていくのがわかった。ただのオフィスだったはずの場所が、お互いの存在を強烈に意識させるためだけの舞台へと変容していく。私は緊張で喉を鳴らし、彼の視線から逃れられずにいた。
「いつもさ、お前のことばっかり見てる気がする」
彼の声は低く、そして驚くほど優しかった。その言葉が、私の心の奥底にある防波堤をあっさりと崩していく。
彼は自由な方の手をそっと伸ばし、私のこめかみに触れた。指先が髪をすくい、耳の後ろへと滑っていく。その指先の繊細な動きに、全身の細胞が粟立つような感覚を覚える。私たちは互いに強く惹きつけられ、これまでの関係性を壊してしまいそうな、決定的な瞬間のすぐそばに立っていた。
彼の顔が、ゆっくりと近づいてくる。夕闇が部屋を包み込み、二人の境界線が完全に溶けていくのを感じていた。


