乳白色の静水、あるいは始まりの躊躇
密閉された浴室には、換気扇の低い地鳴りだけが響いていた。いつもは清浄な湯気で満たされるはずの空間に漂うのは、酢のツンとした香気と、卵黄の濃厚な匂い。浴槽を埋め尽くすのは、日常の風景を歪めるほど大量のマヨネーズだった。自らの輪郭を、誰に見せるでもなく持て余している私。私は衣服を脱ぎ捨て、その滑らかで不透明な乳白色の塊に、そっと片足を沈めた。
ひやりとした、しかしどこか生々しい粘り気が肌を包み込む。誰もいない空間。私は浴槽の縁に頭を預け、自らの内に澱む割り切れない感情を見つめていた。鏡に映る自分の瞳が、ひどく熱を帯びている。自分自身を見つめる時間の長さが、孤独な熱をじりじりと呼び覚ましていく。
「……何をしているんだろう、私は」
誰も応えない空間に、掠れた呟きが虚しく吸い込まれていく。けれど、その不条理な感触は、確実に私の肌の感覚を研ぎ澄ませていった。
攪拌される熱、融解する境界
身体を深く沈めると、大量のマヨネーズは私の体温を吸い上げ、じわじわと不穏な温かさを帯び始めていた。
腕を動かすたび、ねっとりとした液体が肌を擦る微かな音が、浴室の壁に反響して耳を打つ。指先が自らの腕をなぞり、ゆっくりとその重厚な海をかき混ぜていく。それは、ボトルのなかで均一だった乳白色の油分が、激しい攪拌によってゆっくりと性質を変え、形を崩していく過程に似ていた。
「あっ……」
吐息が、冷たいタイルの壁に触れて白く曇る。その乳白色の海に、かつて焦がれた誰かの幻影を重ね合わせてみる。油分が肌の上で体温と混ざり合い、ぬるりとした独特の摩擦を生み出す。私の中の理性が、身体を支配する奇妙な熱にじわじわと侵食され、融解していくのを感じていた。
溢れ出す臨界点、純白の深淵
もはや、どこからが私の身体で、どこからが私を包む液体なのかも判然としなかった。視界を覆う濃厚な乳白色は、日常の境界線を完全に奪い去っていた。
限界まで引き絞られた感情の波が、私の内奥から静かに突き上げてくる。浴槽のなかで不規則に揺れる大量のマヨネーズは、私の乱れた呼吸と衝動を包み隠さず模っていた。意識のピントがぼやけ、自らの強い眼差しを曇った鏡の向こうに捉えながら、私は感覚の最果てへと連れ去られていく。
「……もっと、深く」
囁きのような呼吸が、熱い振動となって弾ける。私は「私」という自意識をすべて脱ぎ捨て、ただ内側から溢れ出す圧倒的な渇望に、自らのすべてを預けていた。激しく攪拌され、熱を帯びた白い海の真ん中で、私は自らが生み出す引力に翻弄されながら、深い恍惚の深淵へと、ゆっくりと堕ちていった。


