スマートフォンの画面と、遠いベランダの影
夕暮れ時の団地は、どこかノスタルジックで、それでいてひどく孤独な記号に見える。同じような四角い窓が並ぶ中、私は自分の部屋の遮光カーテンを少しだけ開け、スマートフォンのカメラを自分に向けていた。SNSに鍵付きのアカウントを作り、少しだけ大胆に着崩した部屋着の自分を撮影してアップする――それが誰にも言えない私の秘密だった。レンズを見つめる私の瞳は、退屈な日常へのささやかな反逆でわずかに潤んでいる。画面のシャッター音が高く響いたその時、通知欄に一件のメッセージが届いた。送り主は、向かいの棟に住む職場の同僚の彼だった。
『今、ベランダにいる? 部屋の明かり、見えてるよ』
心臓が跳ねた。慌ててカーテンの隙間から外を見ると、オレンジ色の夕日に染まる向かいのベランダに、スマートフォンを手にした彼のシルエットがあった。
レンズ越しの視線と、加速する微熱
「……嘘、見られてた?」
私は動揺しながらも、通話ボタンを押してスマートフォンを耳に当てた。
「もしもし、何見てるの?」
わざとぶっきらぼうに言ってみたけれど、私の声は微かに震えていた。スピーカーから聞こえる彼の声は、いつも会社で聞くものよりずっと低く、耳元を直接撫でられているように錯覚する。
「君が面白いことしてるから。その格好、いつもと全然違うじゃん。なんか、すごく……ドキドキする」
お互いの距離は数十メートルも離れているはずなのに、スマートフォンのレンズを通じた視線が、まるで至近距離で見つめ合っているかのような濃厚な間を生み出していた。団地の無機質なコンクリエートの壁が、二人の熱を閉じ込めるように夕闇に溶けていく。衣服が擦れる音さえ、マイクを通じて彼に届いてしまうのではないかと息を潜めるたび、私の肌の熱は急激に上昇していった。通信を繋いだままの境界線
「ねえ、もっと近くで見せてよ。今からそっちの部屋、行っていい?」
彼のストレートな言葉が、私の胸の奥に眠っていた秘密の衝動を激しく揺さぶる。断らなければいけないのに、彼に自分の全てを暴かれてしまいたいという歪んだ期待が、私の理性を麻痺させていく。
遠くに見える彼の影が、ベランダの窓を閉めて動き出すのが分かった。彼がこの団地の階段を駆け上がり、私の部屋のドアの前にたどり着くまでのカウントダウンが、スマートフォンの画面越しに始まっている。
「……待ってないからね」
意地を張った台詞とは裏腹に、私は通話を切ることができなかった。ドアの向こうから近づく足音を想像するだけで、全身の鼓動がシンクロするように跳ね上がる。もう引き返せない一線を越える予感に胸を焦がしながら、私はスマートフォンの画面をじっと見つめたまま、彼が部屋のチャイムを鳴らすその瞬間を待っていた。


