未接続のノイズ
「ねえ、本当にここで復旧を待つの?」
私が手元のスマートフォンを握り直しながら訊ねると、彼は画面の明かりで自分の顔を照らしながら、少し気まずそうに前髪を払った。
28歳の藍さん。プロジェクトのチームリーダーであり、いつもは冷静で完璧な「頼れる先輩」の彼が、今日だけはどこか違っていた。突然の停電とシステムエラーでオフィスの出入り口がロックされ、私を連れて避難したのは、フロアの最奥にある真四畳半の仮眠用スペースだった。
「メインフロアは非常灯がチカチカして落ち着かないだろ。ここなら防音性も高いし、畳だから少しは横になれるからさ」
彼が床の厚手のクッションを引っ張って私に差し出す。その拍子に、彼の薄手のシャツが壁の吸音材と擦れて乾いた音を立てた。一歩動くだけで、お互いの気配がダイレクトに肌へ伝わるほどの狭さ。
「ありがと。でも、本当に狭いね」
「文句言わないの」
彼は私のすぐ隣に腰を下ろした。真四畳半という部屋は、逃げ場をなくす。肩と肩が触れ合う距離で、彼の首筋から微かに漂う、少しビターなウッディ系の香水の匂いが私の呼吸に混ざり合っていった。
静寂を満たす微熱のセッション
スマートフォンのバッテリーを節約するために画面を消してからの時間は、ひどく長く感じられた。暗闇の中で、隣にいる彼の視線がじっと私を追っているのが、空気の震えで分かった。
部屋のなかに、ふっと重い沈黙が降りてくる。窓のないこの部屋は、外の豪雨の音さえ完全にシャットアウトしていて、それがかえって私たちの間の静寂を際立たせていた。
「……なんか、この部屋だけ時間の流れが遅くない?」
私が冗談っぽく呟くと、彼は暗闇の中で私の横顔を黙って見つめた。その瞳には、いつもオフィスで見せる厳しい光は一切なく、何かを耐えるような深い熱が宿っている。
「遅いっていうか、止まってるみたいだな」
彼の声がいつもより少し低くて、耳の奥に直接届く。二人の間に流れる数秒の間が、ひどく長く、濃密な空気となって部屋を満たしていく。
空調が止まった室内は、肌の表面がじわじわと熱くなっていくのが分かった。この部屋そのものが、私たちの体温を吸い込んで、外の世界から完全に隔離された密閉容器に変質していくようだった。境界線が爆ぜる音
沈黙の限界を超えたとき、私たちが作っていた「先輩と後輩」という均衡が、内側から静かに崩壊した。
「ねえ、もう仕事の話で誤魔化すの、やめなよ」
彼がそう言って、私のスマートフォンをそっと床に置いた。軽い音。それと同時に、彼の大きな手が私の手首をそっと包み込んだ。
肌と肌が触れ合った瞬間、熱い電流のような感覚が体中を駆け巡る。彼の体温は、私の想像を遥かに超えて熱を帯びていた。
「……藍さん」
名前を呼ぶ声が、自分でも分かるほどに震えてしまう。彼は私の戸惑いを見透かすように、さらに数センチ、顔を近づけてきた。
「いつもみんなの前で冷静なフリするの、もう限界なんだけど」
彼の熱い吐息が頬をかすめる。それは二十代の拙い理性を簡単に吹き飛ばしてしまうほど、強烈で引き込まれるような引力があった。
暗闇に目が慣れていく中で、彼の潤んだ瞳の奥に、引き返せないほどの強い渇望が剥き出しになっているのが見える。この狭い部屋の中で、あと一歩踏出せば、明日からの関係には絶対に引き返せない。その焦燥感と、胸を突き刺すような甘い衝動が、この空間を極限まで引き絞り、二人の未来を塗り替えようとしていた。


