カウントダウンの始まり
「あと30分。それまでに私を忘れられなくさせてみてよ」
金曜日の深夜、渋谷の雑踏の片隅で、彼は悪戯っぽく笑いながらスマホの画面を私に見せた。画面に表示されたデジタル時計は、終電までのわずかな時間を刻んでいる。
ゲーム感覚で始まった、見知らぬ彼との駆け引き。私は小さく息を呑み、あえて一歩、彼との距離を詰めた。
「いいよ。その代わり、もし私が勝ったら、明日の予定全部私にちょうだい」
強がってみせたものの、ヒールの踵が少し震える。彼の視線は真っ直ぐで、私の動揺をすべて見透かしているようだった。深夜の冷たい空気が二人の間を通り抜ける。だけど、彼が私の手首をそっと掴んだ瞬間、そこから驚くほどの熱が流れ込んできた。衣服の擦れるかすかな音が、やけに大きく耳に届く。
「本気なんだ」
彼の声が少し低くなる。ストリートライトに照らされた彼の横顔は、冗談を言っているようには見えなかった。路地の向こうには、夜の街に溶け込むように佇む、静かで閉ざされたホテルが見える。あの場所が、この時間制限のあるゲームの、目に見えないゴールラインのように思えて仕方がなかった。
熱を帯びる沈黙
私たちは、人通りの途絶えたビルの隙間に滑り込んだ。
「ねえ、時間止まればいいのに」
私が小さく呟くと、彼は何も言わずに私の背中の壁に手を突いた。完全に退路を断たれる。彼の体温と、ほんのりと香るシトラスの香水が私を包み込み、頭の奥がじわじわと痺れていく。彼の視線が、私の唇から首筋、そしてコートの隙間からのぞく鎖骨へとゆっくりと移動していく。見つめ合う時間が、まるで永遠のように引き延ばされる。言葉にできない空気の揺らぎが、二人の身体感覚を狂わせていくのがわかった。
「そんな目で見られたら、帰れなくなる」
彼の吐息が、私の耳元をかすめる。それは驚くほど熱く、私の理性を確実に溶かしていった。胸の鼓動が早鐘を打ち、周囲の雑音が完全に消え去る。遠くに見えるホテルの微かなネオンが、まるで私たちの焦燥感を煽るように、暗闇の中で規則正しく明滅していた。境界線の向こう側
「あと5分」
彼が囁く。しかし、もうお互いに時間なんてどうでもよくなっていた。
彼の長い指先が、私の頬に触れる。その指先は少し震えていて、彼もまた、この張り詰めた緊張感に飲まれそうになっているのだと知った。
「勝ち負けとか、もう関係ないでしょ」
私の声は、自分でも驚くほど甘く、掠れていた。彼は深く息を吸い込むと、私の腰を引き寄せ、限界まで身体を密着させた。コート越しでもわかる、お互いの心臓の音。身体が重なった瞬間、私の中の何かが完全に弾けた。
彼の視線には、もう余裕なんて欠片も残っていない。ただ、目の前の私を強く欲する、強烈な情熱だけが揺らめいていた。
「……帰さないよ」
彼が低く、掠れた声で告げた瞬間、駅へと向かうはずだった私の足は、自ずと別の方向へ、あの静寂が待つ場所へと一歩を踏み出していた。


