午前二時の、歪なエスケープ
終電を逃した新宿の街は、どこか現実味がなくて、冷たいネオンだけが私たちの肌を青白く照らしていた。
「……ねえ、本当にここでいいの?」
私は隣を歩く彼――職場の同期で、いつもは一線を引き合っているはずの男――の袖を小さく引いた。彼は立ち止まり、ポケットに両手を突っ込んだまま、目の前にそびえ立つホテルを見上げている。きらびやかで、どこか後ろめたいその建物のエントランスが、夜の闇に浮かび上がっていた。
「いいよ。疲れたろ、歩き回って」
彼の声はいつもより少し低くて、夜の空気に溶けるように私の耳に届く。私たちはただの同僚で、残業終わりに一杯飲んだだけのはずだった。それなのに、終電が消えた瞬間から、二人の間の空気がじわりと変質していくのが分かった。視線が合うたびに、いつもなら笑って誤魔化せるはずの「間」が、ひどく重く、長く感じられる。
彼は私を見つめ返した。その瞳の奥にある、普段は見せない熱のようなものに、私は小さく息を呑む。
熱を帯びる境界線
自動ドアをくぐると、外の喧騒が嘘のように消え去り、静寂と微かなアロマの香りが私たちを包み込んだ。フロントを通り過ぎ、エレベーターの狭い密室に二人きりになる。
「……なんか、緊張するね」
私が小さく呟くと、彼は何も言わずに、ただ私の隣に一歩近づいた。衣服が擦れるわずかな音が、妙に大きく鼓膜を震わせる。彼の体温が、触れてもいないのに私の肌へと伝わってくるようだった。
部屋に入り、カードキーを差し込むと、間接照明の柔らかな光が部屋を満たした。彼はジャケットを脱ぎ、ベッドの端に腰を下ろす。私はその少し手前、窓際に佇んでいた。
ガラス窓に映る私たちは、まるで見知らぬ男女のようだ。
彼がネクタイを緩める。その指先の動きを目で追ってしまう自分に気づき、胸の奥がどきりと跳ねた。「おいで」
彼が短く言った。その言葉には、拒むことを許さないような、静かな欲望が混ざっている。私は誘われるように、彼の前へと歩み寄った。
重なる吐息、変わりゆく世界
彼の膝の間に立つと、見上げる彼と、見下ろす私の視線が完全に絡み合った。部屋の冷房が効いているはずなのに、二人の距離が近づくにつれて、吐息が急激に熱を帯びていく。
彼は私の腰にそっと手を回した。薄いシャツ越しに伝わる手のひらの熱が、私の理性をじわじわと溶かしていく。
「……ずっと、こうしたかった」
彼の掠れた声が、私の首筋を打つ。その瞬間、私たちは一線を越えた。彼が私の唇を、そして顎のラインを、熱い吐息とともに辿っていく。私の指先は、いつの間にか彼の髪に触れ、その心地よい硬さにしがみついていた。
お互いの存在に強烈に惹きつけられ、世界がこの狭い一室だけで完結していくような錯覚に陥る。もう、ただの同期には戻れない。彼の視線が、私のすべてを暴き、満たそうとしているのが分かった。この夜の先にある結末を想像するだけで、身体の芯が痺れるように熱くなっていくのを、私はただ受け入れるしかなかった。


