※この物語はフィクションです。
冷たい鉄の拒絶
「……外の風、少し冷たくなってきたね」
夜の帳が都会の喧騒を静かに侵食していく時刻。私のマンションのベランダで、会社の同僚である彼は、街の灯りを見つめたまま低く呟いた。
昼間、オフィスの受付で完璧な微笑みを絶やさない「受付嬢」としての私。しかし今の私は、彼の隣でただ立ち尽くすだけの、ひどく不器用で無防備な素人の女にすぎない。「そうですね。でも、室内に戻るには、まだ少し名残惜しい気がして」
私は視線を落とし、ベランダの手すりにそっと両手を預けた。
夜気によって完全に冷え切った金属の手すりは、掌から容赦なく体温を奪っていく。
その頑なな冷たさは、まるで私たちの間に横たわる、超えてはならない一線のようでもあった。
かすかに動いた私のブラウスの裾が、風に煽られてカサリと音を立てる。
彼はゆっくりと顔を巡らせ、私の横顔に視線を留めた。
言葉を交わさないまま、夜風の鳴る音だけが引き延ばされていく、じれったいほど濃密な間が私たちの間を支配していた。
夜風に融ける輪郭
「寒くないかい。……その、手が震えているように見える」
彼が一歩、私との距離を詰めた。その瞬間、彼の纏うかすかな煙草の苦い香りと、男の人特有の熱を帯びた温かい気配が、冷えた私の特等席へと流れ込んできた。
彼の手がゆっくりと伸び、手すりの上で私の指先のすぐ隣に置かれる。その瞬間、張り詰めた夜の空気の中で、触れ合うか触れ合わないかの距離から発せられる彼の体温が、私の肌の奥へとじわじわと伝染していくのが分かった。
冷徹に二人を隔てていたはずのベランダの手すりは、彼の熱が近づくにつれて、不思議とその冷たさを潜めていくようだった。
手すりに強く押し当てた私の指先は、内側から急激にせり上がる熱によって、じわりと湿り気を帯びていく。
衣服の擦れる音が、風の音に混じって生々しく鼓動と重なる。
見つめ合う瞳の奥で、感情と身体感覚が混ざり合い、静かに沸き立っていくのが分かった。未遂の引力、境界の崩壊
「……もう、自分を偽るのには疲れてしまった。君も、同じだろう?」
彼の声は一段と低く、掠れた響きを持って私の鼓動を激しく狂わせた。
彼は手すりを握っていた手を離し、私の腰の後ろへとそっと回し、私を自らの胸元へと引き寄せた。
手すりから離れた私の掌には、冷たい鉄の感触の残滓と、それを一瞬で掻き消すような彼の圧倒的な熱が、鮮烈に交錯していた。私たちが支えにしていた手すりという境界線は、今や完全に役割を失い、ただ二人の情熱を遮るもののない夜空へと解き放つための踏み台と化していた。
このまま彼の放つ熱の深淵へと、すべてを委ねて堕ちてしまいたい。
受付嬢としての仮面も、臆病な素人としての躊躇いも、すべてが融解していく。
行動が決定的に変容し、一線を越えてしまいそうになるその一瞬。
私たちは息を詰め、互いの吐息が完全に重なり合う極限の距離のまま、深く、深く見つめ合っていた。


